【古写真関連資料】薩摩藩士・長澤鼎(写真師・磯長海洲の縁者)

【古写真関連資料】薩摩藩士・長澤鼎(磯永彦輔)

◆長澤 鼎(磯永彦輔)
磯長 海洲の父(磯長吉輔)の弟。
江戸時代の薩摩藩士。薩摩国出身。13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォルニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。薩摩国鹿児島城下上之園通町(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)にて磯永孫四郎とフミの四男として誕生する。生家は代々天文方で、父親の磯永孫四郎は儒学者。

1864年(元治元年)、薩摩藩の洋学校・開成所に入り、英語を学ぶ。1865年(慶応元年)、13歳のときに森有礼、吉田清成、五代友厚、鮫島尚信、寺島宗則らと共にイギリスに留学する(薩摩藩第一次英国留学生)。他の留学生はロンドン大学に入ったが、長澤は年齢が入学年齢に達していなかったため、スコットランドのアバディーンにあった貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に身を寄せ、地元のグラマー・スクールに2年間通う。藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国したが、長澤を含む森ら6名は、性的心霊主義者として知られるトマス・レイク・ハリスを信奉していたローレンス・オリファントの招きで慶応3年(1867年)に渡米し、ハリスが主宰するニューヨーク州ブロクトンのキリスト教系新興宗教団体「新生兄弟社(Brotherhood of the New Life)」に入り、信者らと共同生活を送る。薩摩藩留学生のうち何人かはハリスの思想に違和を感じてすぐ離反したが、長澤は森らとともに残り、翌1868年には森らも帰国した。長澤は唯一人教団に残って厳しい労働と信仰生活を送りながら、1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通った。1871年にアメリカ永住を宣言。教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークのブルックリンでジョン・ハイド博士から学び、葡萄農園を中心とする農業で財政を支えた。

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1875年、教団はカリフォルニアのサンタローザにワイナリーを開いた。しかし新生社の異端思想に対し、新聞が反教団運動を行ったために、1890年代前半にハリスが引退すると教団は事実上解散した。

1900年、長澤はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひとつにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け、高級ワインに育て上げた上に、フランスには特約店を設け、苗木を輸入するなど、商才にも長けていた。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。生涯独身を貫き、83歳で死ぬと、ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。その一部はパラダイスリッジ・ワイナリーとして継承されている。莫大な土地財産は排日土地法等のため相続できず他人の手に渡った。

長澤の存在は一般的にはほとんど知られていなかったが、1983年に来日したレーガン大統領が日米交流の祖として長澤の名を挙げたことにより、広く認知されるようになった。2011年末にいちき串木野市職員がサンタローザから日本へ持ち帰った資料から日記原文などが見つかった。

実弟に、金貸し業などで財をなした赤星弥之助。甥(弥之助の子)に泰昌銀行頭取の赤星鉄馬。

磯長 海洲(いそなが かいしゅう)
「磯永海洲」と書かれた資料もある。先祖や血縁のほとんどが「磯永」の字を用いているが、もともとは磯長であったという。薩摩藩士。磯永家は代々薩摩藩の天文方であった。磯長氏は、河内国南河内郡の磯長村の出自であり、室町期に四国を経由し、鹿児島小根占村に移ったという。天文年間、磯永和泉守吉長の頃にポルトガル船との貿易で富を得た。磯永和泉守吉長から数えて五代目の磯永孫四郎周英が、本家から独立し鹿児島城下に移り、ここから暦学者の家として続くことになる。
磯永孫四郎周英の門人・水間良実は、薩摩藩の天文館「明時館」初代暦正になっている。

磯永孫四郎周英の子・磯永孫四郎周経は「天文図略説」「円球万国地海全図」などの書物が残っている。磯永孫四郎周経の子・磯永孫四郎周徳が磯長海洲の祖父にあたる。 磯永孫四郎周徳は、長崎海軍伝習所などで学んだ儒学者で、寺師正容(市来四郎の実父)の門人であった。 島津斉彬の「集成館事業」にも関わったという。 磯永孫四郎周徳の妻・シズは、樺山資紀(薩摩藩士・海軍大将)の姪である。

父(磯長吉輔)の弟に後にカリフォルニアに渡り「ワイン王」と呼ばれるほど成功した長沢鼎(本名は磯永彦輔)、金融業で成功した赤星弥之助(磯永弥之助)がいる。 赤星弥之助の子に赤星鉄馬(泰昌銀行頭取)、赤星四郎、赤星六郎(ともにゴルフ界で活躍)がいる。

父・磯長吉輔、母・磯長キエの長男として生まれる。
農科大学駒場学校(現・東京大学農学部)を中退し、山形県農事講習所で幹事兼教師を務める。 明治22年頃、川邊キノと結婚。(双子の娘が生まれるが、明治26年に離婚している)

明治 23 年、上海で日清貿易協会(代表は実業家・荒尾精)の設立に参画するが実現せず、上海に残った。 写真師・上野彦馬の写真館(上海支店)で 3 年間写真撮影に従事。 明治 27 年、独立し上海で写真館を開業するが日清戦争がはじまったため、シャム王国(タイ・バンコク)に移る。タイ移住の直後に波多野章三と出会っており、写真館のための物件探しを手伝っている。明治28年、バンコクの英国公使館前に磯長照相館を開業。波多野章三は磯長照相館を手伝い始める。
明治 39 年、セントルイス博覧会を視察した際に帰途中で日本に立ち寄り、写真師・鈴木真一(2 代目)か ら陶器写真の技法を学ぶ。 この頃、 田中盛之助と連名の写真台紙が残っている。 田中盛之助はバンコクに来てすぐ磯長海洲のもとで学んだ形跡がある。

明治 43 年頃、田中盛之助(チェンマイで写真師となった)の弟子・波多野章三に写真業を譲り帰国。 また、波多野章三の妻は、磯長海洲が上海で出会った「菱倉ハル」の縁者で、 磯長海洲らが連れてきた「菱倉イソ」という女性。 大正5年、メキシコに渡っている。大正6年、ハワイに渡っている。大正7年頃、故郷鹿児島に戻る。大正 14 年、下宿先の別府市大字別府2139で自殺した。

なお、田中盛之助は 明治26年頃、鹿児島天文館(明時館)にあった写真館で勤務していたという。