【古写真関連資料】鹿児島の写真師と、薩摩藩主島津斉彬・集成館事業

【古写真関連資料】薩摩藩主島津斉彬・集成館事業

磯長 海洲
磯永孫四郎周経の子・磯永孫四郎周徳が磯長海洲の祖父にあたる。 磯永孫四郎周徳は、長崎海軍伝習所などで学んだ儒学者で、寺師正容( 市来 四郎 の実父)の門人であった。 島津斉彬の「集成館事業」にも関わったという。

市来 四郎
薩摩藩の軍艦、銃器の調達を担当し、箱館戦争に従軍。高島流砲術など火薬の勉学を修め、藩主・島津斉彬に認められ側近となる。その後、製薬掛、のちに砲術方掛となり、集成館事業などの要職を務めた。

宇宿 彦右衛門
江戸で造船、電信、写真などを学ぶ。 帰藩後は集成館掛として、江夏十郎直義(小納戸)、 市来 四郎 、中原猶介らとともに、藩主・島津斉彬の 命を受け、反射炉築造や蒸気船の製造に従事。

◆集成館事業

薩摩藩第28代当主島津斉彬によって起こされた日本最初の洋式産業群の総称をさす。

島津斉彬が集成館事業を開始するに至るまでの時代背景として、その当時、中国でのアヘン戦争(1840~1842年)などでイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国がアジア各地で植民地化を進めていた事が挙げられる。

アヘン戦争については、魏源が著した海国図志(1843年初版)などの書籍が日本に輸入されていたため、日本でもその実情はかなり正確に知られていた。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていった事に、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。

そのアヘン戦争前後から、当時薩摩藩の支配下にあった琉球へ異国船が度々来航するようになっており、それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた。島津斉彬が藩主に就任する1851年には、しきりに異国船が琉球に来航するようになっていた。

そうした時代状況の中で、藩主就任前の島津斉彬は、日本の植民地化を憂慮して軍事力強化の重要性を唱え、富国強兵、殖産興業をスローガンに藩政改革を主張していたが、藩内では資金が掛かり過ぎることが問題視され、財政再建論と富国強兵論で藩論が二分される状況となって、藩主交替の際のお家騒動(お由羅騒動)に発展した。

このお家騒動を経て1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、藩主に就任するや、それまで長年温めていた集成館事業の計画に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。

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特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、殖産興業の分野まで広がっている点が他藩と一線を画す。

1858年に斉彬が亡くなった後、島津斉興をはじめとする保守派の復権などから集成館事業は一時縮小されたが、1863年の薩英戦争においてイギリス海軍と交戦した薩摩藩は、集成館事業の重要性を改めて認識し、集成館機械工場(現尚古集成館)、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど事業を復興させて日本国の近代化に貢献した。