木村 熊二(きむら くまじ)

【古写真関連資料】日本のキリスト教牧師・木村 熊二

木村熊治とも記載される。父は出石藩儒・桜井石門(桜井一太郎)。次男として生まれる。実兄に内務官僚・桜井勉がいる。8歳で江戸に遊学し、10歳で桜井石門の門人・木村琶山の養子となった。江戸・昌平坂学問所(昌平黌)で佐藤一斎、安積艮斎に学ぶ。そこで知り合った田口卯吉(佐藤一斎の縁戚)と同居。佐藤一斎の曾孫(田口卯吉の異父姉)・田口鐙子(木村鐙子)と結婚したが、軍事に奔走してたため、ほとんど同居はしていなかった。幕府に仕えて徒目付となる。幕臣で洋学者の乙骨太郎乙と親交があったという。戊辰戦争では勝海舟の下で活動したが新政府軍に反抗したことで追及を受けることになる。ただし処罰は免れている。この時期に写真師・下岡蓮杖の弟子となり身を隠した。明治3年、日本脱出のためパスポートは偽名で作り、森有礼が少弁務使として渡米する際、外山正一、名和道一、谷田部良吉、大儀見元一郎らと共に随行。ミシガン州ホーランドのホープ大学の校長を通じてキリスト教を知る。明治5年、洗礼を受ける。明治12年、ホープ大学を卒業。のちデイビッド・マレー夫妻の資金援助を受け、改革派教会系のニューブランズウィック神学校で学んだ。牧師試験に合格し、明治15年に改革派の派遣宣教師として帰国。実兄・桜井勉が居住する文京区西片の1000坪の土地を借り、半分に自宅として西洋館を建設し私塾を開く。生徒に巌本善治がいた。明治16年、東京・新栄教会で第三回全国基督教信徒大親睦会が開催され、大儀見元一郎とともに参加。同年、下谷教会の牧師となった。
妻の木村鐙子も日本一致長老教会(植村正久が創立した横浜バンド系の教会)の下谷教会で婦人会を設立し、キリスト教普及につとめた。明治18年、木村鐙子とともに九段下牛ヶ渕で女子教育の先駆けとなる明治女学校を開校。同校の校長に就任したため米国改革派教会からの資金援助は打ち切られた。明治18年、鎌倉に転居し、西片の邸宅は田口卯吉が借り受けた。明治18年、日本初の本格的女性誌『女学雑誌』の発刊。明治19年、木村鐙子はコレラで急死。
明治20年頃、写真師の松浦 栄は牧師・木村熊二によって洗礼を受ける。アメリカ帰りの木村熊二から英語や写真術の初歩を学んだという。明治21年、海老名弾正の司式で伊東華子と再婚。伊東華子のスキャンダルに巻き込まれ、女学校の校長職を退いた。明治21年、頌栄女子学校の校長になる。なお、妻の伊東華子は結局愛人と出奔し、明治29年に離婚している。伊東華子は島崎藤村『旧主人』に登場するお綾のモデルとされ、同作に描かれた事件(若い歯科医との姦通)が離婚の原因だったと伝えられる。明治女学校は巌本善治が校長を引き継いだ。明治24年、高輪台教会の牧師を辞職。明治25年、自由民権家の早川権弥の誘いで長野県南佐久郡野沢村に移住。明治26年、私塾・小諸義塾を創設。明治32年、小諸義塾は旧制中学校として認可を受け、島崎藤村、丸山晩霞等を招き教師として勤務。明治29年、東儀隆子(雅楽家・東儀鉄笛の妹、フェリス和英女学校出身)と再婚。明治39年、小諸義塾閉校。長野市に移住し、牧師として活動した。明治42年、明治女学校閉校。大正6年、に東京へ戻る。昭和2年芝区白金三光町死去。墓地は谷中墓地。最初の妻との長男・木村祐吉は明治女学院教諭。次男は東儀隆子との子。
なお、田口卯吉は明治23年、鈴木經勲と南島商会に参加し、天佑丸のミクロネシア貿易巡航に同行している。

生年/出身: 1845 京都

開業年:

開業地、主要拠点:

師匠: 下岡 蓮杖

弟子: 松浦 栄