
◆高谷 克三郎
旧姓は栗田克三郎。父は栗田文吾といい、代々垂井宿の本陣の当主であった。長男として出生。いつから京都に移ったか不明だが、幼い頃、同志社で英語を学んだという。のち、外国人主導の東海道鉄道敷設工事、京都疎水工事に従事しており、その間に英語の原書から写真術の新しい技術等を独学で研究習得した。京都川端通りに英語塾を開いていたこともあるという。
明治20年、長州藩医・高谷健齋の長女「高谷由機」の婿となり、高谷克三郎と名を改めた。高谷由起という写真台紙が残っており、これは高谷由機と同一人物と思われる。
明治20年頃、京都寺町通松原に開業。のち、長男・高谷健三が継いだ。また長女・高谷静尾は二条河原町の分館を経営し、主に女性の撮影を行っている。
◆垂井宿
中山道57番目の宿場。美濃国不破郡垂井村(現・岐阜県不破郡垂井町)に存在した。 西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。問屋場は3か所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わった。大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝であった。酒造業も営んでいた栗田家が本陣を務めた。

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代々本陣株を引き請けてきた栗田家は、寛政12年の記録では建物の坪数は178坪と広大で、酒造業も営んでいた。
安永9年、中町の火災で建物は焼失し、文化6年(1809)に潰れたが、四年後に再建している。
その後、慶応3年には江州高番付の北川助之丞が本陣株を買い取り、明治時代には学習義校(垂井小学校)の校舎に利用されている。