阪谷 朗廬(さかたに ろうろ)

阪谷 朗廬写真師台紙鶏卵紙

写真師の山本讃七郎は明治元年頃、漢学者、儒学者の阪谷朗廬と山鳴弘斎の三男・山鳴清三郎(または坂田警軒の兄・坂田待園)が大阪で学んだ湿板写真を披露された際、初めて写真を見たという。

漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動。 諱は素であり、阪谷素名義での著作もある。朗廬は号。幼名は素三郎、通称は希八郎。 阪谷芳郎(大蔵大臣、東京市長)の父。1822年、備中国川上郡九名村で、代官所に勤めていた阪谷良哉の三男として生まれた。6歳の時に当時父親が勤務していた大坂へ移り、最初に奥野小山、次いで大塩平八郎のもとで学び、ここで才能を見出された。父親の転勤に伴って11歳で江戸に移転し、同郷の津山出身である朱子学者の昌谷精溪に入門。さらに17歳で古賀侗庵に師事した。26歳の時、病床にあった母親の世話をするため帰郷。1851年、伯父で蘭学者の山成奉造(山鳴大年)の協力により、実家の九名村から少し離れた簗瀬村に桜渓塾を設立する。1853年には代官所が郷校として興譲館を設立するにあたり初代館長に就任するなど、地元で後進の指導にあたった。幕末動乱のこの時期、朗廬は開国派の立場であったとされる。1868年に広島藩から藩儒、藩学問所主席教授として迎えられるが、1870年に廃藩置県で辞職する。1871年には再び東京に転居し、明治政府の陸軍省に入省する。このころ、5人の息子のうち芳郎を除く4人を相次いで亡くす。その後文部省、内務省などの官職を歴任した。また福沢諭吉らとともに明六社に参加、唯一の儒学者として活動した。1879年には東京学士会院議員に選出。1880年には再び教育を行うべく春崖学舎を設立したが、1881年に小石川の自宅で死去。1915年、正五位を追贈。

阪谷家は2代四郎兵衛の頃、延宝8年(1680年)検地帳に、2町6反7畝2歩の田と1町5反4畝2歩の畑を所有とある。3代治兵衛の頃には、田畑4町9反8畝の地主になった。5代甚平(甚八)は同村友成の伊達家から婿養子に迎えられ、“中興の祖”となった。2町7反6畝7歩の田と1町1反9畝7歩の畑を所有して高合計24石となった。延享2年(1745年)に酒造を始め、天明5年(1785年)に250石仕込んだが、天明の飢饉により同6年に半減、同7年には3分の1まで減少した。領主戸川氏から坊主格を賜り、“坂谷”から“坂田”と改姓した。寛延2年(1749年)に御札座役となり札屋と呼ばれるようになった。

息子の阪谷芳郎は大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。備中国川上郡九名村(現井原市)出身。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻。
阪谷芳郎の妻 琴子は、実業家渋沢栄一子爵の次女、法学者穂積陳重男爵の妻歌子の妹、実業家尾高惇忠の姪。明治21年(1888年)に芳郎と結婚。慈恵医院婦人会に入り慈善活動を行って、皇后から上野慈恵病院常置幹事を任命される[2]。
阪谷芳郎の長男 希一は、日本銀行出身 満州国国務院次長、中国聯合準備銀行顧問など歴任。岳父に三島彌太郎。娘の夫に大島寛一、植村泰忠 (物理学者)。
阪谷芳郎の長女 敏子は、堀切善次郎の妻。31歳で病死。
阪谷芳郎の次女 和子は、高嶺俊夫の妻。信子、孝子、秀一、貞子の4児を残し、関東大震災により死亡。
阪谷芳郎の次男 俊作は、京都帝国大学文科卒。市立名古屋図書館館長。岳父に八十島親徳。
阪谷芳郎の三女 八重子は、男爵中村貫之の妻。
阪谷芳郎の四女 千重子は、工学士・秋庭義衛(ヂーゼル機器、ゼクセル社長)の妻。親戚に安藤太郎。
阪谷芳郎の五女 總子は、伊藤長次郎嗣子熊三の妻。
阪谷芳郎の孫 芳直は、海軍主計中尉、のち東急ホテルズ・インターナショナル常勤監査役。
阪谷芳郎の従兄 阪田実は、豊国銀行取締役。
阪谷芳郎の従弟 山成喬六 – 大蔵省主計局長、台湾銀行副頭取、満州中央銀行副総裁など歴任。

生年/出身: 1822

開業年:

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師匠:

弟子: