
幼名は武林亀蔵。 田本研造の一番弟子。 天保 13 年、陸奥國弘前に生まれた。 父は大道寺家十代・大道寺族之助順正。 順正は、幕末に陸奥国黒石藩の家老を勤めた十一代・大道寺繁禎の腹違いの兄。 母は津軽の鰺ヶ沢港に廻船業を営んでいた万兵衛(瀧浦萬五郎)の娘で、大道寺家に女中奉公にあがって いた人物。やがて武林盛一を産んだが、密かに母子を親元に返した。 しばらくして母が亡くなり、武林盛一は廻船業・滝浦萬五郎の養子に入り、滝浦家の改姓に伴い、武林姓 を名乗る。 滝浦萬五郎の祖先は、元禄期に若狭国瀧淵村から旅に出た末に陸奥国鰺ヶ沢に落ち着いたという。 嘉永 6 年、津軽沿岸の大時化により持ち船を破損し、破産する。 武林一家は、青森付近の港口に移住し、その後も各地を転々として、職も変え函館に流れ着いた。 安政 6 年、函館奉行所調役・村上愛助の邸に雇われる。 村上の推挙により足軽に取り立てられ、その後、五稜郭の函館奉行所の門衛になる。 安政 5 年、蝦夷へ渡る。 文久 2 年、函館港に出入りする船舶の検閲掛となる。 入港する外国船に積まれた西洋の文物や写真に興味を惹かれる。 明治元年、箱舘府に仕えながら、田本研造のもと写真術を学ぶ。 明治 3 年、写真業を目指して退官。 明治 4 年、凾舘天神町で開業。 明治 4 年、切見世火事(山の上町切見世長屋(遊女屋)から出火して 1,123 戸を焼失)によって全焼。 明治 5 年、札幌へ移住し、開拓使御抱え写真師として仕える。 オーストラリア人スチルフリード(シュティルフリート)らと札幌周辺の開拓の記録写真を撮影。 南 3 条西 5 丁目の官宅を与えられた。 明治 6 年、大通西 2 丁目の宅地を与えられ移転。 明治 6 年、開拓使官吏(用度掛・御用掛)となる。 明治 9 年、札幌に写真館を新築。 スチルフリードから受け継いだ写真機具を使用していた。 明治 17 年に、三島磐雄(写真師・三島常盤の息子で小説家の武林無想庵)を養子に迎え長男とした。 明治18年頃、上京し、東京麹町一番町に武林写真館を開業。 その際には店舗を弟子の三島常盤に譲って経営を委任。 明治18年頃 北海道の武林盛一が東京麹町区一番町十一番地に写真館を開業。そこで学んでいた。
二見朝隈の弟子・大川孝を写真技師に迎えており、ほかの弟子として、木津信吉 、三崎亀之助、木津為政、田中左一、千田竜太(修正技師)などがいた。明治 20 年、三島常磐に武林写真館の家号を譲った。植村惣吉が大川孝の助手として写真撮影も行っていた。
明治23年(1890)、武林盛一は、それまでの写真館のすぐ脇に大川孝夫妻の住まいなども設けた新館を建て増した。
明治23年(1890)、武林盛一は、結婚した大川孝に写真館の営業に関する一切を任せたが、1年も経たないうちに武林写真館を出て独立したいと申し出る。武林盛一は大川孝に独立のための資本を貸し、大川孝は神田三崎町を開業。大川孝の独立により、九段坂の鈴木真一の弟子、今井直(武林直)を養子として迎え入れ、営業させた。
この頃、武林盛一の弟子には田中某、吉田某(京都朝日館・吉田淸七の息子)、日本橋の木津写真館から来た長谷川徳蔵、尾崎某(三丁目谷の俥屋の息子)がいた。明治30年、三島常盤の妻(まさ)が亡くなる。
明治30年頃、武林直は武林盛一と織が合わず出ていくことになる。武林直はのちに湯島に独立。武林直の代わりに、札幌の三島常盤の推薦で、鈴木真一の弟子、小川顥三郎を写真技師とした。三代目武林写真館本館(札幌南二条西一丁目)は養嗣子の三島徳次郎が継いでいる。 三島徳次郎が、大正13 年死去。
すでに南一条西六丁目で写真館を開業していた三島常盤の弟子・青木露村(直司)に貸して営業させた。 明治 41 年、小石川區宮下町の自宅で死去。墓地は雑司が谷。
生年/出身: 1842 青森(弘前市)
開業年: 1871
開業地、主要拠点: 東京(麹町區一番町)、北海道(札幌)
師匠: 田本 研造
弟子: 三島 常盤 大川 孝 木津 信吉 三崎 亀之助 木津 為政 田中 左一 千田 竜太 植村 惣吉 小川 顥三郎 吉田 ** 長谷川 徳蔵 尾崎 ** 対馬 寅太 宮内 多吉 津島 力 武林 無想庵