
別名は音無榕山。安政元年頃、医学を志して長崎に赴き、蘭方医・吉雄圭斎の門に入る。安政6年、オランダ通詞・松村喜四郎に随行し、長崎から函館に移住。 間もなく右足に凍傷を負い、ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命を取りとめたが、右足を切断。これを機に、写真技術を習得すべく研究を始めた。ゼレンスキーからも教えを受けたと思われる。慶応2年頃、写真師として活動を始めた。 慶応3年頃、既に函館で営業していた木津幸吉とともに松前城や松前藩士、土方歳三などを撮影。明治4年、札幌周辺の開拓撮影を命じられ、弟子の井田侾吉とともに撮影。明治5年、函館出張開拓使庁から東京に158枚の写真が送られ、政府に北海道開拓の状況を伝えた。明治6年、ウィーン万国博覧会には、開拓使の写真が出品されている。のち、北海道開拓使の写真は門下の武林盛一らに引き継がれた。明治10年、実子がいなかったため、養子・大谷筆之助(田本繁)を迎え、江差に写真館を開業。明治13年、江差の写真館は閉店。明治16年、田本繁は函館に戻り、田本写真館を任された。しかし先妻が亡くなり、後妻に実子(田本胤雄)が生まれた。そのため田本繁は独立して別に田本写真館を興すこととなり、二軒の田本写真館が営されていた。明治20年頃(32 年とも)、同郷で親戚の池田種之助が学んでいる。明治30年、木村研が学んでいる。明治33年頃、田本研造が門人の池田種之助を青森市に移動させ、中西應策の許でコロタイプや写真銅版を修行させている。のち中西應策と池田種之助は函館に渡り、北溟社・伊藤鑄之助の支援で田本写真館内にコロタイプ写真銅版を設備した。大正元年、死去。
生年/出身: 1832 和歌山(紀州牟婁郡神川村神上)
開業年: 1866
開業地、主要拠点: 北海道(松前、函館)
師匠: 吉雄 圭斎