岩橋 教章(いわはし きょうしょう)

幼名は新吾、のち教章。父は伊勢松阪藩士・木下新八郎。 安政 3 年に鳥羽藩士・岩橋庄助の養子となった。嘉永年間、江戸に出て、狩野洞庭( 狩野教信)に絵を学び、洞翠と号した。 また、漢学や蘭学を鳥羽藩の江戸藩邸詰侍医・安藤文沢(安藤忠恕)に学んだ。 文久元年、軍艦操練所絵図認方として出役し、各地の測量および地図製作に従事。文久 2 年、イギリス人が日本沿岸を測量した際に、外国人が侵入できなかった土地(伊勢・志摩・尾張地方沿岸)の測量を請ける。 慶応年間、戦乱を避けてきた写真師・島霞谷島隆夫妻を自宅に住まわせ、写真術の手ほどきを受けた。 慶応 4 年、旧幕府軍に加わり開陽丸で江戸を脱出、砲手頭として箱館戦争に従軍。 明治 2 年、謹慎を命じられたが、翌年免除され、5 月には静岡学校付属絵図方に任じられる。 また、明治政府から兵部省出府を命じられ、海軍操練所に十三等の製図掛として出仕。 明治 6 年、ウィーン万国博覧会の際に博覧会御用として渡欧。 石版画を学び、次いで維納府地図学校に入学し地図製作や銅版画を習得。 この頃のスケッチが神戸市立博物館に所蔵されている。 明治 7 年、帰国。その後は大蔵省紙幣寮や内務省地理寮に勤務し、伝習生に指導。 明治 11 年、『測絵図譜』出版。麹町区永田町の自宅に銅版彫刻の会社・文会舎を興して、門弟も指導。 この頃油彩画も手がけ、「明治八年出版皇國名誉君方獨案内」の最初に「油繪 岩橋教章 永田町」と紹介 されている。 明治 14 年、第 2 回内国勧業博覧会では、三区二類の審査員を務めた。 明治 16 年、死去。墓所は谷中霊園。 岩橋教章の油彩画は関東大震災で失われ現存しないとされている。 地図と書籍は現存するが、版画作品は現存していない。ウィーン帰国後の絵画作品は三重県立美術館所蔵 「鴨の静物」1 点のみ確認されている。 長男・岩橋章山は地図局雇となり銅版画制作を引き継ぐ。弟子に堀健吉など

生年/出身: 1835 三重(伊勢国山田) *松阪とも

開業年:

開業地、主要拠点: 東京

師匠: 島 霞谷 島 隆

弟子: 堀 健吉 岩橋 章山