
伊井家は元々、伊勢国井生村の出身であり、伊井姓は、伊勢の井生という意味で付けたという。
息子(伊井蓉峰)の語るところでは、北庭筑波の曽祖父は「西出」という名だったという。その息子・初代伊井吉之助が江戸の伊勢屋に奉公。その子、2代目伊井吉之助には3人の子がいた。 長女は不詳、長男は蘭学者・安藤卓峰であったという。 次男が鈴木姓を名乗り、伊勢屋の跡を継いだ。
伊勢屋を継いだのが、北庭筑波の父・伊勢吉(のちに会津藩御用となり名字帯刀を許され伊井吉之助と名乗った)。
父は油屋伊勢吉(伊勢屋の二代目)。実家は呉服橋の灯明油を主に扱う油問屋「 伊勢吉 」。材木部門などもあり商売は多角的であったという。なお、著名な演説会場・浅草須賀町「井生村楼」は伯父の吉次郎が経営していた。
本名は伊井孝之助。号は北庭筑波、平米雷。別名に伊井菟久波という表記もある。三代目として伊井伊勢吉を名乗った時期もある。和漢洋の学に明るく江戸風の粋人であった。写真に興味を持ち、横山松三郎に学び、内田九一、清水東谷とも交わる。明治 4 年、浅沼藤吉に写真材料店を開業させる。明治 5 年頃、浅草公園で写真館を開業。 明治6年、夜でも写すことができる器械を取り寄せる。 明治 7 年、深沢要橘と協力し、日本初の写真月刊雑誌「脱影夜話」を創刊。明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷、横山松三郎、内田九一、守山(森山)浄夢、加藤正吉、北丹羽(北庭)筑波、小林玄洞」の名がある。明治 9 年、浅草に写真塾を開設。のち新橋に移転。明治 14 年、内田九一の死後、浅草の写真館を購入して「旧内田舎」として再開業する。内田總一は二代目・内田九一として浅草内田写真館を継ぎ名乗っていた時期がある。明治 17 年、即席紙撮り写真を発明。明治 20 年、死去。
息子に俳優の伊井蓉峰(明治4年生まれ)がいる。伊井蓉峰の祖母は、同じ江戸日本橋出身の浄瑠璃宮薗節2代目・宮薗千寿(本名・梅田たづ)といわれる。明治13年頃、梅田たづが北庭筑波の世話になり、女流宮薗節の継承に貢献したという記録が残っている。
生年/出身: 1842(14 年とも) 東京(江戸日本橋呉服町)
開業年: 1871
開業地、主要拠点: 東京(浅草、日本橋)