【古写真関連資料】幕末明治の写真師と、国立印刷局

国立印刷局鶏卵紙

三枝 守富は明治 11 年、大蔵省紙幣局内の写真撮影所で写真研究に従事。 明治 12 年、印刷局長の得能良介らの古美術調査に参加し、古美術の写真撮影を行った。鵜飼 玉川も同行している。 成田常吉は明治 12 年、大蔵省印刷局写真科技生となり、御雇外国人バロン・フォン・スティルフリード(シュティルフリート)から写真術 を学んだ。 
岩橋 教章は明治 7 年、帰国。その後は大蔵省紙幣寮や内務省地理寮に勤務し、伝習生に指導している。

◆国立印刷局
紙幣・切手・旅券・郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物等の印刷を主に行う日本の独立行政法人。

東京都港区に本局をおく他、全国に6工場(東京、王子、小田原、静岡、彦根、岡山)を運営している。行政執行法人(旧:特定独立行政法人)であるため、職員の身分は国家公務員である。
1869年 – 長崎製鉄所に本木昌造によって「活版伝習所」が作られたのが起源で、その後本木は長崎製鉄所を離れ新街私塾に移るが、長崎製鉄所に残った組が工部省に引き継がれ「勧工寮」と称した。
1871年 – 大蔵省「紙幣司」が創設。その後、「勧工寮」を合併し「紙幣寮」と改称。
1872年 – 初代紙幣頭(現在の理事長に当たる)に渋沢栄一が就任。同年、「太政官正院印書局」が創設。
1875年 – 「太政官正院印書局」が「大蔵省紙幣寮」に合併される。なお、当時政府の印刷工場が紙幣を印刷し、国立銀行に発行機能を持たせるとする構想から、紙幣寮から印刷局の初期にかけては銀行の監督業務も職掌としていた。
1877年 – 大蔵省「紙幣局」に改称。
1878年 – 大蔵省「印刷局」に改称(この時に銀行業務を分離)。初代局長に得能良介。
1898年 – 内閣の「官報局」と統合され、内閣所管の「印刷局」となる。
1923年 – 関東大震災で大手町の紙幣印刷工場や王子の抄紙部が被災。
1943年 – 再度大蔵省に所管が戻り「大蔵省印刷局」になる。
1945年 – 空襲によって大手町の本局庁舎と大手町工場が焼失。
1946年 – 市ヶ谷に本局と工場を移転(2010年まで国立印刷局市ヶ谷センターがあった)。
1949年 – 大蔵省の外局である「印刷庁」となる(長は長官)。
1952年 – 大蔵省の付属機関である「大蔵省印刷局」となる。
1962年 – 虎ノ門に本局・工場が完成。
1984年 – 国家行政組織法の改正により、位置づけが、大蔵省の特別の機関となる。
2001年 – 中央省庁再編により「財務省印刷局」に改称。
2003年 – 独立行政法人「国立印刷局」へ改編。
2014年4月1日 – 虎の門工場と滝野川工場が再編され、東京工場と名称変更。
2014年11月4日 – UR都市機構の虎ノ門二丁目地区市街地再開発事業に伴い、旧虎の門工場を閉鎖。本局を共同通信会館の7、8階に移転、官報の製造は東京工場となる。

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国立印刷局は、紙幣・切手・印紙・旅券・郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物などの印刷を主な業務とし、印刷部門が担当している。その他に、製紙部門、出版部門、研究開発部門などがある。製紙部門では紙幣・切手・印紙・旅券などに使用する各種用紙の製造を行っており、出版部門では、官報・法令全書・白書などの政府刊行物の編集や製造を行っている。また、研究開発部門では、偽造防止技術などの研究開発を行っている。デザイン専門の工芸官は、主に紙幣のデザインにあたっている。 また国立大学の二次試験も印刷している。 また、付属施設として国立印刷局東京病院の運営も行っていたが、2013年4月に社会医療法人社団正志会へ移譲された。